エアコン

子供の頃は暑くても寒くても余り頓着しなかった。鈍感だったのか、順応性に富んでいたのか。今は気温の昇降にことのほか過敏になっている。天気予報が、今日は暑くなるでしょうと告げる。おい今日は真夏日だってさ、早速エアコンのスイッチをいれなきゃ。「冷房に紫褪せし造花立ち」(長谷川かな女)。

△TOP

映画

小学校時代、わが家から歩いて一、二分の距離に映画館が二つもあった。私は父に連れられ、しばしばそのどちらかへ出掛けた。映画を見るのが楽しいのか、映画館にいること自体が喜びなのか、ほとんど判然としなかった。いずれにしても小便の匂いのする暗がりで(昔の映画館は、汲み取り式の便所のにおいが、立て付けの悪い出入り口からしばしば漂っていたのである)、名糖ホームランバーかなにかをなめながら、私は、たいへん幸福であった。

△TOP

営業

公園のベンチに若い勤め人が決まって腰掛けているのに気づいた。毎日1時間程ぼんやりそこで過ごしている。外回りの営業社員らしい。身なりはきちんとしている。彼が何を売っているのか知らないが、何か売るより公園でぼさっとしている方がしっくりくるような穏やかな顔つきの青年だ。

△TOP

栄光

栄光はしばしば、後ろに多くの便宜を従えており、そのために栄光が願わしいものになることがある。モンテーニュはそんなふうにいっている。たしかに栄光は、それ自体では飯は食えない。そういうわけでざっくばらんな現代では、スポーツの場でさえ、栄光の価値は大いに下落している。

△TOP

酔い覚め

「酔う」の古語は「えう」なので、つまりこれは「えいざめ」と読む。広辞苑には文例として「酔い覚めの水下戸知らず」という屈折した言葉が掲げられている。酔い覚めの水の旨さは下戸にはわかるまい、ざまあみろというわけである。この項目の執筆者はきっと酒飲みなのに違いない。

△TOP

エイズ

免疫は異物の侵入を阻む。つまり免疫は非寛容である。自分は自分でないものとは共存しないといっているのだ。エイズは免疫を壊す。それによって寛容さが生じ、自分も自分でないものも共存し、やがて自分は自分でないものに浸食される。エイズは生命の悲しみの、一種の寓話である。

△TOP

衛星

『現代用語の基礎知識』の目次には衛星のつく用語がひしめいている。要するにそれだけ沢山の人工衛星が地球を回っているわけで、本物の衛星である月は、さぞかし騒がしい思いでいることだろう。もっとも月自体がやがては開発されて、これがホントの衛星都市ということになるかもしれないわけだが。

△TOP

栄転

学生時代の友人から、転居通知が届く。形通りの挨拶文と転居先の住所が印刷された文面に見覚えのある筆跡で「まあ栄転だ」と臆面もなく書き添えてある。栄転はめでたいが、単身赴任は大変だろう。学生時代の彼の、恐ろしく乱雑で不潔だった下宿を思い出しながら、苦笑いした。

△TOP

英雄

英雄の時代は去った、キルケゴールは前世紀の半ばにそう宣言した。英雄のあとにあらわれたのは、情熱のない退屈な公衆である。公衆は世論調査でハイと答えたりイイエといったりする。またテレビの視聴率で表わされたりもする。キルケゴールはいっている。「公衆は一切であり無である」と。

△TOP

英和辞典

小学校の卒業式の記念に英和辞典を貰った。赤い表紙に卒業年度と学校名が金箔で押してあった。この辞典を携え、父に貰った腕時計をつけて、これも誰かから贈られた万年筆を胸に挿して中学校に進んだ。インテリになった気がした。実際は子供らしい物神崇拝に過ぎなかったわけだが。

△TOP

エース

中学の野球部のエースは180センチのサウスポーだった。野球の名門校に推薦で入り、彼が甲子園に出てくるのを、われわれは楽しみに待った。だが1年で肩を壊し、野球をやめた。三流の大学に入った。女の尻ばかり追い回していた。子供ができて仕方なしに結婚、大学は中退した。今は少年野球の監督をしている。

△TOP

エープリール・フール

四月馬鹿とは万愚節(4月1日)にだまされる人のことをいう。万愚とはつまり、みんな馬鹿ということだ。もちろん西洋の節句だが、その起源は諸説あってはっきりしないらしい。ぼんやりしてるほうがそれらしくていいけど。「愚といふ美徳廃れる万愚節」(富安風生)。

△TOP

愛男

「えおとこ」と読む。広辞苑は「愛すべき男。りっぱな男。」と説明している。美男とは違って、容姿は問わないのだろう。ところで字面を見ていると、なんとなく同性愛っぽい雰囲気が漂ってくるようだ。「愛人」という言葉と思わず結びつけるからだろうか。大阪なら「エエ男」になるわけだが、こちらの場合も、あまり容貌の美醜は問わないようだ。

△TOP

笑顔

女子高生が歩いてくる。余り垢抜けしない娘で、多分出来上がったばかりの写真の束を眺めている顔が綻んでいる。その様子を遠慮なしに眺めていたのかもしれない。私に気づくと、彼女の笑顔は消えて厳粛な顔になった。高校生だとばかり思っていたが、随分年を食っていることが分かった。

△TOP

人に見送られたことより、見送ったことのほうが圧倒的に多かったような気がする。列車は出て行く。私は手を振る。去り行く人は悲しかったり寂しかったするかもしれない。見送った私は、大抵がっかりしている。自分だけが、相変わらずここに取り残されていることに気づかされるからだ。

△TOP

エキスパンダー

独身男の部屋にエキスパンダーが置いてあるのは少々滑稽で、そしてうら悲しい。熱心に使っているなら、それは切なく、ちょっと使ってすぐに放り出してしまったのなら、それもまた切ない。取っ手の塗装は剥げていて、スプリングには錆がきている。中古を買ってきたらしい。

△TOP

エキセントリック

どんな人間も(ドストエフスキーの小説に出てくる人間ほどではないにしろ)、奇矯な所はある。電車に乗って。乗客を少し観察してみればよい。あくびを盛んに繰り返し、その都度、あ?あとカンに触る声を出す奴。落ち着きなくあちこち席を替える奴。頭に渦巻が3つもある奴。

△TOP

駅弁

牧野信一のある小説の中に、妻が寝坊して朝食を作ってくれないので、駅までいって駅弁を買ってくるという場面があった。筋はほとんど忘れているのに、そこのところだけ妙に印象に残っているのは、旅人でもない男が朝食に駅弁を食べるというのが、間抜けにも切なく感ぜられたからだ。

△TOP

エクスタシー

泥酔のあげく前後不覚になったことが何度かある。そういう忘我もエクスタシーというのだろうか。我を取り戻すとひどい後悔と二日酔いが襲ってきて、惨憺たる思いをした。エクスタシーには不向きな人間なのだろう。要するに散文的でばちあたりなのだ。

△TOP

えげつない

えげつないは大阪弁だが、だからといって、時にいわれるように大阪人がえげつない人種ということにはならない。むしろえげつないという独自の表現を持っていることが、大阪人のえげつないに対するデリカシーを示している(そういうひとびとのすむいわば含羞都市に対して、新しく総理大臣になった人は、かつてたんつぼ呼ばわりしたことがある。えげつない話である)。もっともえげつないの語感自体は、多少えげつないとは思うが。

△TOP

エゴ

例によってラ・ロシュフーコーはいっている。「他人の罠にかかった時のわれながら滑稽な醜態とくらべれば、われわれの罠にかかる人たちは、とうていそこまで滑稽には見えない。」(二宮フサ訳)おそらくエゴイストは、人が見ているのとは反対に、自分に厳しい人間であるに違いない。

△TOP

えごえご

「肥え太ったさま。でぶでぶ。また太った人がゆったり動くさま。」広辞苑はそう説明している。へえ知らなかった。こんな言葉があったんだ。『現代用語の基礎知識』で若者用語の新語を見つけたみたいな新鮮な気持になる。もっとも、こっちのほうがずっと床しいけれども。

△TOP

エコロジー

『現代用語の基礎知識』の目次には、エコロジー関連の項目がずらりと並んでいる。エコビジネスとかエコツーリズムとかあって、こうして様々な分野が地球に優しくしているのだ。もっとも余りに様々すぎて肝心のエコロジーがいささか朦朧としてくるといった気味がなくもないが。

△TOP

エスペラント

学生時代の先輩にエスペラント語を話す人がいた。一緒に酒を飲んだ晩、いいものを見せてやえるからといって下宿に連れて行かれた。模型の機関車が四畳半をぐるぐる回っていた。その部屋でも飲んで目が回った。理屈っぽかったがノンポリだった。そういう学生が、昔いたのだ。

△TOP

枝毛

電車の中で若い女性が盛んに枝毛を調べている。ひんがら目をして口を半ば開いて、一心に髪の毛を見つめている。その光景は、のどかだともいえるし異様だともいえる。春の陽がさして車内はあったかだ。その女性の表情は、わが情けない息子が鼻糞をほじる時のうつろな顔つきに、やや似ている。

△TOP

枝豆

シーズン到来。大リーグのベースボールなんかではなく、もちろんわがプロ野球のである。テレビの前にどっかり腰をおろし、塩茹でした枝豆を皿に山盛りにして、今年もまた発売された新銘柄のビールの栓を抜いて、さあプレイボール。「枝豆をおせばつぶてや口の中」(五十嵐播水)。

△TOP

エチケット

最近は、口臭とか腋臭とかいった体臭方面にも使われるようだ。朝シャンもこの種の強迫的エチケットに含まれるのだろう。礼儀作法のほかに、仲間内の仁義という意味もある。におうやつは仁義にもとるというわけなのかもしれない。そういえばいじめられる子供は大抵臭いといわれるのである。

△TOP

江戸川乱歩

高校時代の一時期、集中して読んだ。筋立ての面白さとエロ・グロに引かれて読んでいたのだが、そのエロ・グロは、幼児的な多形態的倒錯を示して奇妙に無邪気なのだった。その意味で子供の頃読んだ少年探偵団ものと一直線につながっていたのかもしれない。また夏目漱石の遊民を、趣味の探偵の方向にも発展させた。

△TOP

NG

「全ての行為はやり直せない、それが人生の困難なところだ」サマセット・モームはつくづくいっている。そして「振り返れば、自分の犯した過失にぞっとする」更に「全生涯が無益なもの見えてくる」。だが人生がテレビで、NGが出てもう1回やれといわれたら、それもまた困ったものだ。

△TOP

エピクロス

快楽主義の始祖。尤もエピクロスの快楽主義は消極的なそれであって、苦痛がないことが快楽なのだ。だから後に曲解されたように享楽を追求したりしない。むしろ地味で「隠れて生きよ」と教えている程だ。心の平静が究極の善で、そのゆえに「賢者は恋をしない」ともいっている。本物の快楽主義は、そんなに楽しいものではないのだ。

△TOP

えへへ

さすが広辞苑で、律義に「えへへ」を解説している。「笑う声。作り笑いの声。」その隣の項目が「えへらえへら」で、意味は「おかしくもない事にしまりなく笑うさま。」私はこの項目を深刻に受け止める。しょっちゅう「えへらえへら」と笑っていることに、改めて気づかされたからだ。

△TOP

エラー

感傷的なアーウィン・ショーは、ある感傷的な小説の中でエラーのことを「男の冒険につきまとう暗い面」と表現している。一方マキャベリ派のある政治家は「政治家にとって犯罪よりも悪いことは、失策だ」といった。細かいことにくよくよするタイプの筆者は、前者を支持する。

△TOP

エルニーニョ

この「エルニーニョ」ってのは名前は売れているわりに、実際は何をしてるのかよくわからないやつだ。ラテン系で口当りのよい語感がヒットした理由だろう。特に語尾の「ニョ」というところが、幼児的で気持がいいのだ。同じ気象用語でも、ヘクトパスカルのほうはちょっと堅い。

△TOP

演歌

演歌では、成就した恋愛などというのは滅多になくて、大抵恋が破れて、別れて、未練でといった情緒を扱う。こうした演歌的マゾヒズムは忠臣蔵や源義経を好む判官びいきとつながっているようだ。日本人はくやしい気持が好きなのだと『「甘え」の構造』の土居健郎氏もいっている。

△TOP

宴会

プラトンの『饗宴』は要するに宴会のことで、飲めや歌えが、哲学的な論議に重なっている。私はラストの所が特に好きだ。明け方、人々は酔いつぶれて寝てしまう。ソクラテスは寝つかれず乱雑な宴のあとを、そっと抜け出す。飲んだあとの倦怠とそこはかとない寂しさがよく出ているのだ。

△TOP

遠隔操作

TVのリモコンの発明は、本体の発明に匹敵する意味があったのではないか。今までは人はTVの所まで出向かねばならなかった。つまりTVは人の主人だった。だがリモコンのおかげで立場は逆転したのだ。尤も主=従の相互依存性はそのままか、それ以上に保存されているわけだが。

△TOP

園芸

チャペックの『園芸家12カ月』を読んだ。園芸家の四季を通じた労働と喜びを、ユーモラスに綴った大人っぽい本だ。読み進んでいくうちに自分も園芸を始めたくなる(子供っぽいのですぐに感化されるのだ)。でも無理だ。著者も断っているように、園芸には自分の庭が必要だからだ。

△TOP

縁台

縁台などどいうのは、最近では例えば俳句を作るために無理やり引っぱってくるくらいで、実際には殆ど見かけることはない。また縁台にぴたりと収まる人物も滅多に見られなくなった。マクルーハン風にいえば、エアコンというクールなメディアが人間を縁台で涼しませなくしたのである。

△TOP

縁談

行きそびれつつある娘の縁談と書けば、それで小津安二郎の『晩春』のストーリーのあらかたを説明したことになる。だが映画は勿論物語ではないので、実際にそれを見るほかはない。そして映画は、かろうじて家族とか縁談とかが成立した時代の幸福と切なさをとらえている。

△TOP

煙突

昭和恐慌の頃、切羽つまった労働者が、工場の高い煙突に上って自分達の窮状を訴えた。軍の独走が既に明白だった時代だ。この決死の戦術は各地に飛び火した。尾崎放哉の句集から煙突が出てくる俳句を探してみた。「空に白い陽を置き火葬場の太い煙突」。煙突男の少し前、大正末期の作だ。

△TOP

エントロピー

目の前によく冷えたビールがある。そのままにしておけば、生ぬるくなるだろう。外気温と一定になるまで、つまり熱平衡状態に達するまで、ビールの温度は上がり続けるからである。そのときエントロピーは増大している。いずれにしても冷えたビールは、さっさと飲んだほうがいい。

△TOP

遠慮

人は人間関係において遠慮のない間柄と遠慮すべきそれを区別する。その境界に印があるとすれば、それは放屁ではないか。つまり遠慮のない間柄では人はどしどし屁をこくが、遠慮のある場合にはこかない。それは動物が縄張りに自分の匂いをつけるのと同じ、マーキングではなかろうか。

△TOP

Copyright(C) AsagahotoHatsuyuki sha,All rights reserved.
Powered by Movable Type4.27-ja