学生の頃、一人で旅するのがはやった。自己発見の旅などと称していた。金がなくて野宿をするので「自己発見の旅」は夏のほうが都合がよかった。サンダルばきで、ショッピングバッグに衣類を詰めて旅する友人もいた。今考えると旅というより、ホームレスの一種だった。「蚊をころすうちに夜明る旅ね哉」(昌碧)。

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カー

『自動車の社会的費用』は、大変便利な自動車が、実は社会的にどんなに不経済な財であるかを示した名著だ。私は煙草もやめたし、運転免許証はもともと持っていない。そこで個人的になにか変だなと思うのは、嫌煙権はあんなに声高に叫ばれるのに、嫌車権をいう声はほとんど聞こえてこないということだ。

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会飲

会して食事することが「会食」なら、酒を飲むのが「会飲」である。会食の場にも酒は出るし、会飲の際にも何か食べるだろうが、こういう区別をわざわざつけることで、会飲には、飲むぞ!という強い意志が感じられる。今なら飲み会という所だろうが、会飲のほうがずっと酒が強そうだ。

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改革

「新しい理想、これくらい味気ないものが他にあろうか…‥下院議員諸君にふさわしいものだ」(崎山正毅訳)。アイルランドの詩人ジョージ・ムアが前の世紀末にいった言葉だ。昨今のわが政界は「新しい理想」を掲げた改革の大合唱だ。味気ないばかりか、ときどきわずらわしい。

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会議

J・K・ガルブレイスはいう。会議は実際に行動できないとき、行動の代わりとなり、会議の参加者にもそれ以外の人々にも、何も起こっていないのに何か起こっている気にさせると。この皮肉な見解によれば、会議がしばしば開かれる社会は、会議そのものに劣らず退屈だということになる。

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会社

『現代用語の基礎知識』の“サラリーマンコミック”という項目の解説に「子供達にとっての学園に代わるものとして、会社が舞台に選ばれる」とあった。それを読んで、いまや会社と学校はべつのものではないのだ、と合点がいった。それでは現代人は、果たしていつ卒業するのだろう。

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怪獣

ここ数年、毎年年末に息子とゴジラを見にゆく。私が映画館で見る映画は、それだけになってしまった。タナトスの象徴であるゴジラが、あらゆるものを、無意味に破壊するのを息子は喜んでみるが、私はそれほど楽しまない。ただ伊福部昭氏の音楽だけはべつで、これを聞くと怪獣映画の最初の衝撃がたしかに甦ってくる気がする。

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甲斐性

大阪言葉だと「かいしょ」となって、どうしても「なし」と続けたくなる。そういわれると男たるもの大変傷つくが、それで奮発して甲斐性を得ようとするかというと、そうでない。そうでないところがかいしょなしたる所以なのだ。かいしょなしはシャイなのだ、とちょっと自己弁護しておこう。

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回想

家庭用ビデオカメラの普及で、われわれの回想も、テレビ・ドラマや映画の回想シーンと同じく忠実な再現となった。正確な思い出を綴れるわけだが、記憶違いによる美しい誤解や、後から美化するといったことはなくなってしまう。回想の多くはフィクションで成り立っていたわけなのに。

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怪談

学校の怪談がはやっている。もっともも学校にお化けが出るのは今に始まったことではない。お化けが学校に出やすいのは、そこが子供にとって抑圧装置だからだろう。経験では中学、高校と進むにしたがって、お化けは出にくくなるようだ。抑圧がなくなるからではない。それに馴れるからだ。

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カイツブリ

カイツブリの真似をするというフランスの諺がある。臆病者という意味だ。この小型の水鳥は危険に過敏ですぐに水に潜ってしまうからだ。食物にも神経質だと、この鳥を飼った経験のあるK・ローレンツは報告している。4センチ以下2センチ以上の生きた魚しか食べないというのだ。とても切ない声で鳴く。

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街道

わが家の裏の旧街道沿いには、刀匠などという人も住んでいる。まったく変化がないとは、もちろんいえないが、少なくとも進歩の方向には歩んでいない。若者の頃には見向きもしなかったこの街道に、最近は愛着を覚えてきた。廃ってゆくというのは、綜合的にいって負の価値とはいえないと、私なんかは思う。

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街頭

W・サローヤンの『人生の午後のある日』という小説に、主人公が子供時代に見た素晴らしい箱作りの職人の話が出てくる。その職人は「ニジンスキーが踊るように」一セントの木箱を作った。それを子供たちは尊敬の目て眺めたのだ。かつて子供にとって街頭は、劇場や学校だったのである。

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買物

バブルの頃だ。夜中のコンビニで不気味な光景を見た。一人の若者が、膨大な買物をして、レジのところで金が足りなくなっていたのだ。窓のようにうつろな目をした若者で、それで、シャンプーとか歯ぶらしとか、一品ずつ戸棚に戻している。買物が強迫症的になっている極端な例だった。

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外野

中学時代エースだった男と外野の補欠だった男が酒を飲んでいる。エースは180センチで、補欠は160センチだ。二人で飲んで、それで25年前の府大会の準決勝の話をしている。補欠だった男は代打で出て好機に四球を選んだ。「よお選んだよなあ、オレ、あの時なあ」外野の補欠は何度も、そういっている。

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快楽

「快楽はむしろ世論によるもので、女の流行のように変化し、そして最新流行の快楽ほど好ましい」。S・モームは、そういっている。だとすれば快楽を味わうのも楽ではない。テレビで紹介された流行のラーメン屋の美味を味わうのに三時間も行列する、というのも、まあその一例だ。

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カウボーイ

『ジュニア・ボナー』は『エデンの東』を明るくしたような映画だ。どさ回りのロデオショーに出ている風来坊の弟に同じタイプの父親が「やあ、カウボーイ」などと声をかける。やりての兄は不動産業を悪どくやっている。『フィールズ・オブ・ドリームス』なんかよりずっといい映画だった。

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カウンター

中学時代エースだった男と外野の補欠だった男が飲んでいる。もう夜中の2時だ。カウンターひとつの小さな店にはほかに客はいない。カウンターの向こうの女主人は中学時代の彼等の同級生だった。その頃彼女はエースが好きだった。補欠は彼女が好きだった。3人とも大分酔っている。

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ラ・ブリュイエールはいっている。「男の精神的な様子は、女のすました顔つきのようなものである。それは最も見え坊な者がとかくあこがれる種類の美容である」(関根秀雄訳)。たしかにそうだ。ハンサムな男の前では、自分はずっと精神的な人間なのだという顔を、ついしてしまうのである。

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『サザエさん』のカツオ君なら、依然としてやっているかもしれないが、昔の子供の滑稽漫画(そんなジャンルがあったのだ)は、毎年秋になると、頑固親父の家の柿の実を盗もうとする主人公の苦心をネタにしたものだ。かつては子供の世界にも、こうした歳時記風の暮らしがあったのだ。

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各駅停車

わが家の最寄り駅には普通電車しかとまらない。私はのんびりした生き方が好きだと人にいい自分でも思っているが、電車を使った際、急行の通過待ちにあったりすると、何か搾取されたような気になる。それで修行が足りないとは考えない。それとこれとはべつだと考えるのだ。

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学歴

「学歴社会」というものを愚考するに、高学歴が幅を利かせる社会というわけではすでにない。むしろ今や高学歴が標準になった社会のことだと思える。これを教養あふれる成熟した社会のしるしと見ることはもちろんできない。大部分の人間が記号になってしまった社会ということだ。

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掛取り

現金ではなく、期日を決めて売った代金を回収すること。掛取りの期日は多く歳末だったようで、冬の季語になっている。コンビニエンス・ストアの売上げが、親会社のスーパーのそれをすら上回る時代には、もちろん死語。「掛取がいさかひをりぬ掛取と」(笹山呑海)。

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過去

人間には未来型と過去型の二つのタイプがあるのではないか。未来型の人は、未来は待つものではなく、選択するものだなどといいつつ、選択した結果に概して満足しないで、さらに選択を行う。過去型の人間は、彼自身選択などしないので、結局うんざりしている不平家に、永遠に留まる。

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バイエルン王ルードヴィッヒ二世は、ある時、軍服を着て恋人の前に現われた。自分を勇敢な男に見せたかったのである。だが彼はその時傘をさしていた。きれいにカールした髪を雨で台なしにしたくなかったからだ。この虚弱な変人王は、アメリカのハードボイルド派の探偵に多少似ている。

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菓子

煙草をやめたら、急にお菓子に手が伸びるようになった。甘みなんて幼児的な味覚で、女、子供のものだなんていってたのが、その女、子供と一緒にあんころ餅を楽しく食べたりしているので、われながら嫌になる、結局煙草を、おっぱいがわりに20年も吸い続けたというだけだったのだろう。

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鍛冶屋

「太古以来、いつの世でも、どこの国でも、とかく鍛冶屋は、評判の良い、人に好かれる職業」とロングフェローは歌った。G・バシュラールは、鍛冶屋に労働の原始の喜びを求めている。村の鍛冶屋の鎚の響きは、かっこうの声のように風景に溶けているとも、この繊細な哲学者いう。

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カステラ

わが家の裏手は旧街道で、その道沿いにカステラ屋があった。焼き上げたカステラを切り分ける際に出る切り落とし、つまり屑を近所の人に廉価で販売していた。それは正式のカステラそのものよりうまいように思われた。ときどき無性にその屑の味が恋しくなるが、店はもう何年も前に閉められてしまっている。

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すっかり凪いでいるより、多少風があったほうがよい。暑い夏はもちろんだが、寒い冬でもそうだ。木枯らしに吹かれて背中を丸めて歩き、すっかり冷やされて、飲み屋の戸を開け、のれんを潜る。おーさぶ、などといいながら暖かい席に着く。「沸々と寄鍋のもの動き合ふ」(浅井意外)。

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過疎

私が生まれ現に住んでいる町は、六百年かそれ以上も前から都市だったが、最近では辺境の農村のような過疎地になっている。老人ばかりが多く、若者はいない。私の通った小学校の全校生徒は、私の頃の一学年の数にも満たない。わが「廃市」は実の所、この国の将来の形を先取りしているのだ。

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中学時代はエースで今は少年野球の監督をしている男が、ベンチで補欠の男の子に肩を揉ませている。25年ばかり前には目覚ましい速球を投げた肩だ。それが今はよく凝るただの中年男の肩になってしまった。気持ちよさそうに目を閉じて、どうやら半ば居眠りしている。

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傍ら

「ある女を生涯私の傍に置いて、彼女が肥リ出し、白髪になり、皺がより、馬鹿になって行くのを見ているようなことを私がなんでするものか」(崎山正毅訳)。結婚を否定して、G・ムアはいう。だが彼女の傍らにいる男のほうも同じ経過をたどるのだ。「傍ら寂し」という言葉もある。

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学校

息子の通う小学校では、一年から六年までが入りまじって交流する時間というのが設けられていた。私の子供の頃には、そういう世代間の交流は、ごく自然に街路やはらっぱや駄菓子屋の店頭で行われていた。それが今では学校で制度化しているというわけだ。あまり楽しそうな雰囲気はない。

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カップヌードル

チキンラーメンが売り出されたのは、小学校にはいるかはいらないかの頃だった。カップヌードルが出たのは、多分大学卒業の頃だ。それで私はカップヌードルよりチキンラーメンのほうがずっとおいしいと思う。これはつまり、幼年時代が幸福だといっているのと同じことである。

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カーディガン

フランス人が書いた『イギリス人の生活』という本によれば、イギリスの女性は、4才から80才まで老若、貧富の分かちなくプリントの木綿服とカーディガンを着ているという。この頑固な画一性は、軽薄な独創性よりも好感が持てる。尤もこの本は1959年の刊行なのだが。

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悲しい

「まず大部分の者は、自分の知識を自己保存と種の繁殖に使うだけで、残りはたいてい不まじめに使ってしまう」(中村佐喜子訳)。S・モームはいっている。アザラシの雄のことではない。われわれ人類の話だ。知識の真面目な使いかたとはいかなるものか、よく判らないのが悲しい所だ。

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ガム

W・サローヤンの『人生の午後のある日』には、二人の男がガムのことで昔を懐かしむという場面も出てくる。昔は一枚のガムを分けあって噛んだというのだ。それが今は成功して、一度に五枚も噛める。サローヤンの成功には、フィッツジェラルドのような神経症的な所がちっともない。

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「一八四○年には一時、亀をパサージュで散歩させることが、上品なことと見なされた。遊民は好んでその亀のテンポで歩いた。」(野村修訳)。W・ベンヤミンはそう書いた。当時の遊民は進歩は亀の歩みのように、と考えていたのだ。昨今の爬虫類ブームには、どんな意味があるのだろうか。

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歌謡曲

戦後の歌謡曲は、高度経済成長時代が絶頂期だったのではないか。都会にやってきた若者たちが、その支持者だった。それは故郷を離れた孤独な彼等の民謡ではなかったか。都会と故郷に分裂し双方から疎外された民謡だ。故郷はもはやなく、歌謡曲の時代は二度と帰ってこないだろう。

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空酒

余り風采のあがらない初老の男が自転車でやって来て、自動販売器でカップの清酒を買うと、その場で慌ただしく飲んで、さっと立ち去った。初夏の黄昏時だ。飲まずにはいられなかったのだろう。「からさけ」と読む。肴なしに飲む酒、と広辞苑は説明している。何だか少し切ない言葉だ。

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軽い

「あまりにも軽佻浮薄で、堅実な長所はもちろん、真の欠点さえとうてい持てないような人がいる」(二宮フサ訳)。ラ・ロシュフーコー公爵はいっている。公爵の生きた17世紀よりも、わが20世紀のほうが、こういう人々はずっとたくさんいることだろう。他人事ではないわけだが。

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カレー

夕方街を歩いていて、どこからかカレーの匂いが漂ってくると、懐かしいような切ないような気持になる。カレー的わび、さびともいうべきこの情緒は、子供らしい食欲につながっている。所で私はライスカレーと呼ぶ方が、カレーライスというより何となくおいしそうに思うタイプである。

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缶詰

フランス人が書いた『イギリス人の生活』という本によれば、英国人の食生活は一般に大変貧しいらしい。彼らは缶詰が大好きだ、とそのフランス人の著者は面白そうに指摘している。フライにしたジャガイモまで缶詰なのだ、と。だが缶詰の食品には、一種の頼もしさがあるように思われる。

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寒波

「四季のうちで冬は一番古い」。G・バシュラールはそういっている。この言葉はこの閉じこもりがちな季節の、内面的な原始の幸福をよく示しているようだ。確かに寒風ふきすさぶ外を尻目に、暖かい布団に潜りこむ幸せは、又とあろうか。「寒き夜の畳におきし時計かな」(徳川夢声)。

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燗番

「料理屋などで酒の燗の世話をする人」と広辞苑。和風のバーテンダーとでもいう所だろうか。ちょっとやってみたい仕事ではある。愛想がよくて美人のおかみの横で、難しい顔で加減を見ている。燗番のほかには、時々するめをあぶったりする。不器用な男だね、とか何とか客にいわれて。

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看板

中学時代エースだった男と外野の補欠だった男が、まだ飲んでいる。エースは大学中退で職を転々とし、今は叔父の町工場を手伝っている。外野の補欠は、二流どころの大学を出て、家業の仏壇屋を継いだ。カウンターの向こうの女主人は二度離婚した。「もう看板よ」欠伸しながらそういう。

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缶ビール

J・アップダイクは、ビール缶が専用の器具で穴を開ける方式から現在のタブ式に変わった時、この進歩に憤慨して一文を書いた。「高雅なぷふふという音」を立てる旧式のビール缶を私は知らないが、彼の抗議の結論は支持する。彼はいった。「我々に必要なのは、避難口つきの進歩だ」。

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玩物喪志

中国最古の教典『書経』にある言葉だそうだ。「無用の物を愛玩して志を喪失すること」と広辞苑は説明している。要するにフェティシズムのことではないか。つまり中国の古い言葉はちいとも古びず、現代のほとんどすべての人は、玩物喪志にますます陥っているかのようだ。

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