ヴァレンチノ

映画の初期の大スター、ルドルフ・ヴァレンチノが死んだとき、その葬儀は、いわば集団ヒステリーの場となった。11ブロックにわたって行列が出来、暴動が起き、女性二人が後追い自殺した。一九二六年のことだ。同じ頃ドイツではもっと大がかりな集団的熱狂が起こりつつあった。

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ウィット

ウィットは素早くて、かつ鋭い。ユーモアがお人好しだとすれば、ウィットは往々にして意地が悪い。ウイットの名人がそのウィットを披露した場合、必ずそれを理解できない人がいるものだ。ウィットを笑う人は、同時にそのウィットを理解できない人をも笑っているのである。

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有為転変

同窓会にて。「あの男は来てないようだな、君を好きだった彼は」「今服役中よ。覚醒剤を売っていて捕まったのよ」「知らなかった」「彼女はどうしてるのかしら、何度もあなたをふった彼女は」「ロクでもない男と結婚して不幸な目にあってるよ」「それで、あなたは?」「実は彼女と結婚したのは、俺なんだ」

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ウイルス

DNAかRNAに蛋白質をまとっただけの軽装の生き物。彼らの目的は極めて明解だ。ただひたすら増殖することである。小柄な彼らの大きな野心は、他の高等生物、たとえばヒトの生き方としばしば相容れない。エイズウイルスの場合では、それが互いの絶滅を賭けた闘争となっている。

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飢え

勿論筆者には飢えの経験はない。大学生の頃に、多少それに似た経験をしたとはいえるかもしれない。その時代には夜中に下宿で腹が減っても、部屋に冷蔵庫も、町にコンビニもなかったからだ。もっとも冷蔵庫もコンビニも本物の飢えに対しては、それほど堅牢なシステムであるようには、どうも思われないのだが。

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ウェルテル

若きゲーテが書いた小説の主人公。年上の人妻に惚れて、振られて、自殺するこの人騒がせな青年は、当時大ブームを起こした。若者たちは、ウェルテルと同じ格好をしたり、自殺したりした。自身の体験を描いた著者のほうは、書くことでウェルテルを克服し、世界の文豪となった。

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魚心あれば水心

人間の租型的な贈与関係の消息を端的に語る成句だ。取引以前の微妙な情愛から露骨な取引に至るまでの関係を幅広くカバーしている。「魚心あれば水心」をすっかりなくしてしまえば関係はかさついたものになり、それを大目に見すぎれば、やがて魚も水も腐ってしまうだろう。

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浮助

「うきすけ」と読む。元禄ごろの江戸語と広辞苑にあって、うかれ男、遊蕩児を意味するらしい。なるほど浮助か、いかにもいい加減そうで、けれども面白そうなやつだ。語感から福助を連想してしまうが、もちろんあんなに礼儀正しく、律義なやつじゃなかったわけだ。

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受け口

広辞苑の「受け口」の二つ目の説明はこうなっている。「下唇が上唇よりも出ている口もと。うけくち。」そのまんまだが、そういう口もとが目に浮かんで、なんとなく可愛いのである。平仮名で「うけぐち」とあるのも、ちょいと風情がある。つぎは「おちょぼぐち」を調べてみよう。

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フランスでは「兎の記憶を持つ」などという。記憶力が弱いという意味である。発情期の熱烈 さは「3月の狂気」と呼ばれるほどで、欲望の象徴ともされた。そして「走れウサギ(ラビット・ラン)」というのは憶病を嘲った言葉である。筆者の干支は、この頭が悪く好色で憶病な兎である。べつに気にしていないけど。

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胡散臭い

筆者は散歩を趣味としていて、週日の昼間にとことこ歩いているのだが、これって胡散臭く見えるかもしれないな、としばしば思う。このモータリゼーションの時代には、歩行自体が胡散臭い行為なのかもしれない。歩くことを始めて最初に発見したのは、歩いている人は極端に少ないということだった。

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妻は農家の娘で、子供の頃には、まだ家に牛がいたという。高度経済成長期の盛期あたりまでいたのではないかと、勝手に推測している。農作業の機械化の過程で、老牛は消えていったのだろう。つまりリストラだ。悲しい別れがあったのかもしれないが、その話はまだ聞いてみたことがない。

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失う

フロイトのいう現実原則というのは、失うことに慣れること、もしくは鈍感になることではないだろうか(失いたくない気持を抑圧するともいえるかもしれない)。我々は失うものなど何ひとつない丸裸で生まれてきて、それでいてつぎつぎに失ってゆくのだ。確かにわが種族は切ない生き物だ。

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丑の時参り

広辞苑に「頭上に五徳をのせ、蝋燭を点して、手に釘と金槌を携え、胸に鏡をつるし、呪う人を模したわら人形を神木に打ち付ける」とある。こんな物々しいというか、変な衣装を着ているうちに、呪うのが馬鹿馬鹿しくなってくるんじゃないか、と思うのは現代人の淡泊な考えであろう。

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後ろめたい

筆者は責任を感じることは滅多にないが、後ろめたく思うことはしょっちゅうある。例えば父親として子供に責任があるかといわれると、俺とお前の間で責任があったりするのは水臭いじゃないかという気になる。だがそんな気持になることを、息子に対して後ろめたく思いもするのだ。

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薄汚い

「なんとなく汚い」というのが、広辞苑の説明である。つまり、はっきりとここがきたないんだ!と特定のできないきたなさであって、もどかしいきたなさなのである。そういうわけで「薄汚い」のほうが単なる「汚い」よりも、いっそうきたないような感じがするのである。

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ウスターソース

豚まんにつける調味料は、他の人は知らないが、私の場合、何といってもウスターソースである。皮に染み込ませて食べると、大変懐かしい味がする。子供の頃、ウスターソースが大好きで、カレーや天ぷらにまでかけていた。子供心にも、多少下品な食べ方だなとは思っていたが。

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うすなさけ

多少演歌っぽいが、なかなか含蓄のある言葉だ。「薄情」のように芯から冷たいわけではない。情はあるのだが、その情が貫徹されないで、うやむやになってしまうのだ。そのほうが薄情よりも、実はいっそうむごいのかもしれない。多少ではなくて、露骨に演歌っぽい言葉であった。

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ウスバカゲロウ

昔から薄命の典型とされ、はかなさの象徴となっている。もっとも幼虫時代は蟻地獄であって、名前も行動も凶暴なやつだったのだ。高校時代にヤンキーだった女性が、卒業後は猫を被って殊勝にしているみたいなものかもしれない。「母老いてうすばかげろふさへ怖る」(平間真木子)。

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「クレタ人は皆嘘つきだ」クレタの哲学者エピメニデスはそういった。さて彼のいったことはホントか嘘か。我々は合わせ鏡の迷宮の中で困惑する。「嘘つきは泥棒の始まり」という無邪気で倫理観のはっきりした世界が恋しくなる。だが人間の世界はエピメニデスの方向に進んできたのである。

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うそ淋しい

「何となく」という意味の接頭語「うそ」に淋しいがくっついた形。淋しい気持というのははっきりしたものではなくて、つねにうそ淋しいものではあるまいか。同様にうそ寒いなどともいう。少々寒けを覚えるというわけだ。うそ寒くてうそ淋しい。確かに人生、そういう夜もある。

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うたかた

「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、ひさしくとどまりたる例なし。」『方丈記』の有名な出だしだ。「うたかた」はつまりバブルだが、このうたかたと最近破裂したバブルでは大分違う。先頃のバブルは、大量の合成洗剤を全自動洗濯機で撹拌したみたいなうたかたであった。

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打ち水

「一日の空白なりし水を打つ」(深見けん二)。最近道に打ち水している光景を、余り見かけない。殆ど車を通すだけになってしまった現代の道に打ち水という行為はそぐわなくなっているのかもしれない。打ち水するよりエアコンのきいた車に乗っているほうが、もちろん涼しいわけだが。

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宇宙

子供の頃、宇宙はもっと人なつっこかった。冥王星や海王星には無理だとしても、金星と火星には宇宙人がいる可能性があった。火星には運河さえあったのだ。それが今では、インフレーション宇宙とか宇宙の泡状構造とか超弦理論とかいっている。そういうことを耳にすると、私なんかは宇宙に疎外されているような気になる。

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うちわ

小学校のある時、休み時間に暴れた私は大いに汗をかきながら席に着いた。すると隣の席の女子が下敷きを団扇にして、暑がっている私をあおいでくれたのだ。途端に私は恋に落ちた。つまり赤ん坊に添寝しながら優しく団扇をつかう母の面影を、同い年の少女の中に、無意識にみて取ったのだ。

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美しい

「若くても美しくなければ何にもならないし、美しくても若くなければ何にもならない。」(二宮フサ訳)ラ・ロシュフーコーはいっている。いかにも17世紀フランス貴族のしそうなひねくれた洞察だ。つまり彼の時代に絶対王政が進んで、貴族の旗色はすっかり悪くなっていたのである。

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空蝉

小学校1、2年のころまで、息子はセミマニアだった。夏休みになると、連日早朝から近所の公園に出かけ、50も60も捕まえては、けたたましい鳴き声とともに帰ってきた。幼児の強欲さでセミの殻まで大量に持ち帰り、机の抽斗に大事にしまい込んでいた。母親が、ぶつぶついいながら処分していたが、季節外れに思わぬ所に見つかることがあり、ちょっと不意をつかれる思いがしたものだ。そういうことをけろりと忘れ、息子は、この春中学生になった。「手におけば空蝉風にとびにけり」(高浜虚子)。

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移り気

移り気には二種ある、と警句の名人ラ・ロシュフーコーはいっている。一つは精神が弱くて他人の意見を鵜呑みしてしまうからだ。もう一つは万事が味気なくなったための移り気で、こちらの方が大目に見てやれると言うのだ。箴言の世界的、歴史的大家に向かって反論するのは何だが、逆ではないかと私は思う。

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自惚れる

ラ・ロシュフーコーは、人が他人の美点を誉めるのは、その人の偉さに対する敬意よりも、自分自身の見識に対する得意からである、といっている。痛いところつかれたという気になるが、彼はまた、得意になることが全くなければ、人は何の楽しみもなくなるともいっているのである。

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ウバザメ

もう10年近くも前になるだろうか、四国沖で人食いサメ騒動があった際、初めてこんな名前のサメが、この世にいることを知った。さわぎのとばっちりでプランクトンが主食のこの温厚なサメも捕獲され、当時はサメが捕まると必ずニュースになったのである。バカザメともいう。このおとなしく気の毒なサメを、馬鹿よばわりする権利が誰にあるというのだろう。

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競馬は勤め人の時代に、ちょっとかじった。勝つと嬉しく負ければ悔しかったが、のめり込むことはなかった。サラブレッドの醸す物語の香りも多少嗅ぐことができたが、結局わが実存を揺さぶるまでには至らなかった。またやってみようとは思わない。記憶に残る馬は、やはりテンポイントだ。

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梅林で有名な公園に散歩に出かけた。立春までまだ間があるころで、蕾は固く、ひと気もない。と、一人のおじいさんが寒さにも関わらず、ぽつんと地べたに座っているのに気づいた。花のない梅をぼんやりと見上げていた。花がないので、こちらはそのおじいさんをぼんやりと眺めた。ひょっとするとおじいさんではなくて、おばあさんなのかもしれない。べつに枝振りを吟味しているふうでもない。要するにそこにいるのだろう。「老人と梅」か。いしいひさいちがドーナツブックスの1冊につけた表題が、立ち去り際にふと口をついて出た。

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うやむや

生まれてこの方どれくらいの物事をうやむやにしてきたことだろう。日記を読み返すと、一年に何度も予定を立てたり決意したりして、大抵それをうやむやにしている(その日記をつける習慣も、とっくにうやむやにしてしまった)。やがて筆者の生自体が、かくしてうやむやになるわけだ。

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裏切り

小学校の4年生の時だった。ある級友が万引きをしているという噂が立ち、私は彼を告発した。級友は事実を認め、教師に叱責された。その日の放課後、私は、別の級友に呼び出された。彼は悲しげな顔でいうのだった。おまえは仲間を売ったんだ。思春期の入口いた私は、自分を恥じた。

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裏目

ラ・ロシュフーコーはこんなこともいっている。「世には馬鹿たるべく定められた人がいて、彼ら自身が進んで馬鹿なことをするだけでなく、運命そのものが否応なしに彼らに馬鹿なことをさせるのである。」(二宮フサ訳)。私のやることなすことが裏目に出るわけが、これでわかった。

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麗らか

秋が爽やかなら、春は麗らかである。同じ温度だとしても、春と秋が異なった印象を与えるのは、湿りけの違いからだろうか。秋には食欲が増進し、春には眠くなるのもそのせいなのか。筆者の持っている歳時記は、「うらら」はつかい勝手のいい言葉だが、濫用は避けるべしと戒めている。

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うんこ

子供はうんこが好きである。臭くて汚いところが、彼のお気に入りだ。フロイトは、子供はうんこを贈物だと感じるといっている。そこで育児において、用便の躾は重要な問題となる。幼時にうんこと不幸な接しかたをした人は、長じて便秘症になるだろうという説を筆者は小声で提唱する。

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運転

筆者は車の免許をもっていない。教習所に通うのが嫌で、何度かあった機会を見すごしたのだ。独身時代は多少体裁悪く思ったが、弊害を強調することで自分を納得させたのだった。今は疾駆する車の脇をとぼとぼ歩きながら、スピードというものにそれ程関心がなかったんだなと考えている。

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