2009年11月アーカイブ

図書館で借りた本

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図書館で借りた本が机の片隅に置かれたままである。貸し出し期限の二週間そこに置かれたままだった。
二週間前久しぶりに図書館へ行った時、この本を読みたいと思って借りた。家に帰って机の隅に置いた。それ以来、何回か手に取ったのだが、本文を読まずに返却期間がきてしまったのである。
じゃあその間に本というものを読まなかったのか、そうではないと思う。読みさしの何冊かの本や雑誌類をあちこちで読んでいた。あちこちとはトイレとか風呂場とかベッドとかである。風呂場に本を持ち込むなんてと思う向きがあるかもしれないが、私は湯船で本を読むのが好きなのである。だいたいは片手で持ちやすい薄手の文庫本が風呂本として選ばれる。本棚にある、古い文庫本を選ぶか、読みやすいエッセイが風呂本の定番である。
ベッドでは、なるべく難解な哲学書系を読むようにしている。すごく早く眠りに誘い込んでくれるからだ。
図書館で借りた本は、風呂場に持ち込むわけには行かず、ベッドで睡眠薬代わりに使うような本でもないので、中途半端に机の隅に置かれたまま、目次と序文とあとがきを読んだだけなのだ。
でもいつか、私はその本を読んだと言うかもしれない。そう、あとがきに書いてあった、フレーズを二次使用して、「私の読んだ本には、確かこう書かれていたけど」とか言うのである。
そういう事が想像できるのである。

お茶会

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仕事の関係で、いたしかたなくというか興味半分もあって、ある茶会に出ることになった。
抹茶の立礼という椅子に座って茶を飲む様式を体験した。流派は宗偏流であった。茶は様式であるという。形ではなく心だとかなんとか、とはいえ儀式であるのでシナリオと約束事があるようだ。儀式としては、床の間の掛け軸と生けてある花とその花器について質疑応答がなされ、次に配られる菓子についての応答その後その菓子を食し、最後にいれられた茶を味わい、その茶碗を鑑賞するというような事である。
そういうことが、行われてい間、私のような初心者は、ただただ、いわゆる茶席の主客の位置にいる人の真似をするだけであった。
それは、配られたお菓子を食べるタイミングとか、その菓子の食べ方、茶を飲むときの所作である。
私にとっては、甘い栗羊羹かなにかを食べた後、渋いお茶を飲むというのが茶の作法だから、茶が主体の作法というのはどうもしっくり来ない。
そもそも、どうして茶を飲むという行為がそこまで儀式化されなければならないのだ、などと思っていたのだから。
お茶はいい味だしお菓子も京都から取り寄せた上品な菓子らしい。普通にいいお茶だね、お菓子もおいしいね、床の間の掛け軸はいい趣味だね、と言えばいいのにと思う。
茶会における茶は会話の触媒であって、茶会の本来の役割は掛け軸の絵や書、焼き物の造形美、庭の草花の生物学的知識といった情報交換の場ではなかったのかな。
亭主と主客のやり取りは、マニュアル的すぎると思うのだが、マニュアルを媒介にして絵や造詣物や植物の知識を増やして行くのだから、教育的意味はあるのだと、訳の分からん事を考えながら茶を飲んだ。

なくした手帳

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先週、酔っぱらって手帳をなくした。私には変な癖があって、酔っているときでも面白い話を聞いたときにはメモするのである。冗談の応酬で盛り上がっている時手帳を取り出してメモするのは座をしらけさせるので、いやがられるのだが仕方ない、癖なのである。
先週の飲み会の時、これは普通の会話の中で約束する用件があって、確か一週間後にある雑誌の記事のコピーを渡すというような約束だったのだが、この歳になるとメモしておかなければそういう約束はすぐ忘れる。で、手帳を取り出してメモしたのである。そのあと、酒を飲み交わして家へ帰った。
次の朝、何か約束をして、メモした筈だと思い出してメモを探そうとして手帳がないのに気づいた。約束の用件は思い出したのだが、問題は手帳だ。
スケジュールや住所録は別の手帳なのだが、予定に付随するメモとか思いついた文章の一片とかいろんな情報が書き込まれている手帳なのである。仕事などには影響ないが思考の断片が失われたようでつらいものがある。次の日の夕方、手帳を取り出した店へ行って開店直後だったが、なじみの店員に手帳の落とし物がなかったか聞いてみた所そんなものはなかったの一言。
二次会で言った店は夜も更けないと開店しないので、その日は手帳の探索を諦めた。それが一週間前の話だったが、もう手帳の存在は諦めかけていて、今夜飲み会であったので二次会で、件の店に寄ってみた。すると、ちゃんと忘れ物としてその店に保管されていた。大した手帳ではない。コクヨの野外手帳だから、単価は超安いのだ。
しかし、自分の記憶の断片が戻ってきたのである。うれしかった。読み返してみると、自分で読んでもなかなか面白い事が書いてある。自己満足の世界だが。

間の良い人、間の悪い人

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会社に友人から電話があって、ある人を紹介したいという。何か企画を提案したいようなのだが電話だったので詳しく聞けなかった。でも一応その紹介したい人とやらと会うことにした。そのことで昼休みに雑談していたら、その企画にぴったりの計画があると部下が言う。じゃあその計画に沿うような提案だったら、話に乗ってみようと言うことになった。
その午後、全く見ず知らずの人が、私に会いたいと受け付けに来た。その時、私は会議に出かける直前で、部下に対応を依頼してその人に会う事はなかった。
会議が終わって、対応した部下に話を聞くと、なんと偶然にも午前中の提案話とそっくりな話が直接持ち込まれたのだった。
しかし、部下にその提案をどうこうする権限もなく、一応お話は承りますと言って帰したのだった。
午前中の話がなければ、午後の客人の話はもしかしたら前進しているかもしれない。
仕事の話の進み方というのは、間があるのだ。

自説を曲げぬ人

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このところの二、三日私はずっと説得していた。自説を曲げない人を説得し続けたのである。頑固に自説を曲げない人なのである。一人では難しいので、二人掛かりだった。10分ずつ交代で説き伏せるのである。10分話していると疲れてくる、というより、自説を曲げない人の屁理屈と頑さにだんだん腹が立ってくるのである。それで、冷静になるために黙り込む、その間にもう一人が別の観点から説得をする、そういう事を繰り返したのである。
一日目と二日目は、一時間半。それでもらちがあかない。最後の三日目は30分でとうとう、説得を諦めた。
自説を曲げない人の特徴は、こちらの話を聞く振りをして、実は何も聞いていない。だから、いつも同じ所へ戻ってしまうということなのだが、この繰り返しの呪縛から逃れられないところが、私の説得の弱さなのである。

ウオーキングシューズを買う

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と、言うことで、何がと言うことでか分からないのだがウォーキング用の靴を買うことにした。
昨日まで健康のためにウォーキングをするのだ、スニーカーは新しいのを二足持っているのでそれを流用したらいいのだと思ってた。だが家族が言うには、普通のスニーカーとウォーキング用の靴とは大違いという事らしい。
偶然というかおあつらえむきというか、近くのショッピングセンターにウォーキング用の靴を足の形状を測定してぴったりの靴を推薦してくれるという店ができた。
早速そこへ行ってみたら、普通のアシックスの店だった。なんだ、アシックスかと思いながら商品を見ていた。あまりデザイン的にいいものがない。もっといい色を使えよと言いたいのだが、色使いが平均値狙いで薄ぼんやりとしたベージュ系からブラウンそして黒という品揃え、微妙に本格的靴専門店の色を出しているのだが所詮アシックスでしょうという印象は免れない。
しかし、その店員の対応がおもしろかった。年配の店員で、その商品がウォーキングに特化しているというので、歩くという事に関して靴の効用を説明する。その説明が、多分彼は実際に中高年ウォーキングを実践しているのだろうというリアルな説明だった。
私はこれまで、足は長さ二十何センチと知っていて、そのサイズを中心にいくつかの靴を履いて購入を決めていたのだが、今日その店の店員にアドバイスをされて、初めて本当の自分に合っている靴の見つけ方を知ったのだ。
靴は子供の頃から幾つ履き替えたか知らないけど、靴の大きさというのはだいたいで、デザインが気に入ればこの靴の二十何センチの靴を見せてくださいと言って試着して、そのときに違和感がなければ購入というのが普通だと思う。
ところが、この店の店員が面白いのは、私みたいなスポーツ素人の足をアスリートの誰かに例えて説明するという事だ。それというのは人間の足の形はいくつかのパターンに分ける事ができるというのがベースになっているようだ。それは足先の指の形のパターンで分けられるらしい。
でも、あなたの足はこの選手の足形に似ているので、この靴がいいでしょうと言われたときのその説得力の強さ。
私は、即座に買いました。

歩く

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このごろまた、よく歩くようになった。元々歩く事には自信があったのだが、それにしても、その自信の源泉は、小学生から中学生の頃、長距離ランナーだったということだけなのだ。
堺に住む友人と年に二三回会うのだが、その時は堺近辺を散歩するのが通例だ。興に乗ると堺から大阪の吹田市辺りまで歩いた事もあった。友人は趣味が散歩というような男で健脚を自慢しているので、延々と歩く。私も疲れただの足が痛いだなのというのが癪なので黙々と歩く。
そうして最後には、散歩なんだか徒競争なんだか分からないようなことになる。
そういうことが何回かあって、一年ほど前、堺の町を歩いている時、あれは南宗寺から電車通りへ歩いているときだったか、足首に違和感を感じた。多分敷石の段差で足首の関節を捻ったのだと思う。
この日は、大事をとって散歩をやめて、喫茶店に入ってビールを飲むことにしたのだった。
それ以来、その捻った足首の違和感がずっと取れないでいて、長く歩く事が億劫になっていた。しかし、この秋から再び歩くようになった。足首の違和感がなくなった事も一因だが、運動らしい運動をしなくなったので、せめて歩く事ぐらいはしようという気になってきているからだ。

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