2017年5月アーカイブ

袋綴じの魔法

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学生時代の想い出。

あのころ友人たちとミニコミ雑誌を作っていた。ミニコミタウン誌というのが流行だしたのは多分その頃ではないかと思うのだがその記憶は確かじゃない。でもミニコミタウン誌というのは活字で印刷されていて雑誌という体裁をしっかりと整えていた。


我々が学生時代に作っていたのはそういうものじゃなくて手書文字の手作り雑誌だった。

その手書き文字にも2種類ある。いわゆる普通に書く文字とガリ版文字といってガリ版用に開発された独特の書体を使ったものがあった。

ガリ版と言ったって今の人には通用すまい。ま、いずれにしてもそういう印刷技法があって小さい文字でも視認性の高い文字の形(今で言うとフォントだな)が開発されていた。

話がずれるけれども説明するとその文字の特長は、句読点や濁音半濁音の記号をはっきり書き、ひらがなでも「は」とか「な」のようにくるりと回る部分は大きく書く、字画の多い漢字は草書体のように簡略化するのだが、草書体のように縦書き対応ではなく横書き対応になるように工夫されていたのだ。


個人的な意見なのだが、このガリ版文字を中学・高校生の女の子が書くと丸々っとした変体少女文字になった。この当時の学校配布のプリント類は全てガリ版で作成されていたのでその書体に少なからず影響されていたのだ娘らは。テスト用紙だってガリ版文字だったのだから。あの変体少女文字というのはガリ版文字の進化版ということなんだな実は。


ミニコミ雑誌の印刷の話だった。ガリ版でない印刷方法というのが青焼きコピーと言われていた方法で正式にはジアゾ式湿式複写と言うらしい。トレーシングペーパーに濃いインクで文字や画像を書き、青焼き用感光紙と重ね合わせて複写器械に通すという方法。文字だけならガリ版印刷という方法が最も安価であったのだがガリ版はイラストや漫画の印刷には不向きだった。ガリ版で「絵」を紙に書いたように再現するのは不可能に近い事だったのだ。

その点、青焼きという方法は塗りの濃淡まである程度再現してくれるので漫画やイラストを印刷する方法として最高のコストパフォーマンスを示したのだ。


私はその頃大学の漫画同好会に所属していたのだが同好会では会としてジアゾ式の青焼きコピー機を所有していた。同好会の会誌「ビーグル」を印刷するためである。当時の各大学の漫画サークルや漫画研究会は青焼きの会誌を作成していたのでほとんどのサークルは自前の青焼きコピー機を持っていた。コピー機のメーカーは「三田工業」だった。他のメーカーもあったのかも知れないが私の所属していたサークルのコピー機は「三田」だった。


ジアゾ式複写は薬剤が塗られた紙を感光させて画像を転写する。そういう機構上の制約で片面にしか印刷できない。従って印刷されたものを製本するときには真中で半分に折って袋綴じにするのが普通である。


コピー機の前に座って黙々と感光紙と原稿を重ねて器械に送り込む。刷り上がった紙は少し湿っている。乾いた紙を皆で半分に折り、それから一ページずつ重ねて丁合いし、小口をそろえて大きなホチキスでガチャリと留めるのである。漫画サークルの部屋の風景とはこんなものであった。


出来上がった会誌は袋綴じなのでノンブルの示すページ数の倍の紙の厚さがあった。分厚い広辞苑が知識の殿堂のように見られるのと同じで分厚い会誌はすごく重厚な感じがしたものだった。まあ、自分たちの創作の結晶であるからそう感じてもいいのだが、半分は袋綴じによる底上げ効果もあったということを今冷静に思い出している。


あのころ自分たちが作った会誌を見ながら、自分がすごい才能を持っているかも知れないという妄想をかき立てる事ができたのは袋綴じによる二倍の厚さ効果があったのかも知れない。


大人げないこと

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一昨日、知人からメールがあって家へ来ないかという誘い。

この知人とは碁敵の関係にある。その彼はこの年明けから体調を崩していた。大好きな酒も断って健康に留意しているのだが一向に体調が戻らないらしい。体調が悪くなってから全く出歩かなくなり、すっかり気鬱になって閉じこもっていたらしい。


私は彼と2?3ヶ月に一度くらいの割合で酒を酌み交わしながら囲碁を打っていた。ビールを飲みながら2?3局打ってそのあと彼の行きつけのスナックでカラオケを歌うというのが定番となっていた。

私はそのスナックへは季節ごとにしか行かないので「四季の男」と店のママからはよばれているのだ。


その彼がほぼ半年ぶりに囲碁を打ってカラオケで歌おうという気分になったらしい。

私は今日夕方の早い時間に彼の家へ出かけた。ちょうど野球中継を見ていてゲームが佳境に差し掛かるときだったが約束なので仕方がない。


彼の家でいつもの通りビールを飲みながら碁を打った。

碁の力はほぼ互角でいつも勝ったり負けたり。ところが今日は私が連勝した。彼は病み上がりで調子が出ないのだろう。

いつもならそのあと連れ立ってスナックへ行って歌うのだが今夜は出かけたくないと言う。私はそのまま帰ってきた。

大人げなく囲碁に連勝した事で病み上がりの彼をさらに傷つけてしまったのか、すこし心が傷んだ。

今夜の話題はずいぶん昔のことについてだった。

1995年に我々が日本SF大会をこの町へ誘致し見事に展開したことは我らの誇りでもあるし懐かしい想い出でもある。

イベントの開催、なんせ有料で1500人を集めたのである。それはそれで大変な事だったけれど当時も今もこの町の中では全く評価されていないのが残念である。

そういう事を評価できない狭量さがこのまちの持ち味とでもしておこう。この町ではおたく系のイベントは白眼視されていた。いまどき白眼視なんてことがあるのだろうか、いぶかる人も多いだろうが白眼視というのは露骨な強い視線のほかに知らぬ振りをするという「あからさまな無視」という視線も含まれている(それが白眼視じゃないのかと言葉に厳しい人は指摘するかも知れないが、そこは見なかった事にしてほしい)。


当時この町に大きなイベントホールと会議施設と展示場の3点セットができたばかりだった(厳密にはそれにホテル(宿泊施設)がはいるのだが)それらを余す事なく利用するイベント、日本SF大会を開催した。これってすごいことなのだけれども、いちいち言うと自慢話に終わるので詳しくは語らない。


今夜はその裏話に花が咲いた。それは当時始まったばかりのテレビ東京の「何でも鑑定団」をイベントの話題作りに誘致しようという計画のことだった。

いろいろあったけれども我々は「何でも鑑定団」の誘致に成功してアクトシティ展示イベントホールで録画が行われることまでやったのだ。

そのときの鑑定団のテーマは「SFグッズ鑑定大会」(だったような)でそれにまつわる品々が登場した。我々の仲間の一人も偶々手に入れた「2001年宇宙の旅」の上映フィルムの一コマを鑑定に出した。

「SFグッズ鑑定」は結構評判をとり視聴率も良かったらしい。で、翌年の北九州小倉で開催されたSF大会でも同じように番組制作されたらしいのだがその後「SFグッズ鑑定」は行われていない。なんでも番組に出された鑑定品に犯罪にまつわる疑惑がつきまとったらしい。

この後日譚はSF界の裏話に詳しいF田氏とH村氏の話。

そういう世間話。

日記ももたつく

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大洞院.jpgネットに繋がるシステムが簡単になって、料金も手頃になって誰しもがネットで日常の動きを報告しはじめたのはこの世紀に入るほんの少し前の事だったよな。

私もホームページで日記を綴ったのを昨日の事のように覚えている。


日記を書くと言おうか日々の記録を残すと言おうか、何か自分の生きた痕跡を残したい人間の本能のような行為を何も考えずにやっていたのだ。


だってその当時、他人の目に触れる「書かれたもの」は一つの創造作品のように考えられていたのだから。違うな、考えられていたという一般的な事ではなくて私がそういう風にネット上の日記のことを捉えていたのだ。


その延長でずっとネット上で日記を書いていた(ものすごくいい加減な非連続な日記だったのだが)のだがその日記を書き込んでいた無料サービスが閉鎖される事になってそのままネットでの日記も書かなくなった。


この度、二年以上のブランクがあって日々の記録をネットで書くことを再開しようとしているのだが戸惑う。TwitterやFacebookがあるこの世界。ここに書く事の意味は何か、と考えてしまうと下手な筆もさらにもたつくのである。


とりあえず妻と森町へ行ったことを写真として残しておこう。

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