2000年12月アーカイブ

大物小物

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〓画像パス〓赤鬼青鬼

大物になる条件に質実剛健、細事にこだわらない、というのがあります。 社長が事務所の掃除の仕方に口を出したりすると、経営者の器じゃない、などと陰口をたたかれます。不精で、不潔で、だらしない小物の方が圧倒的に多いのですが、几帳面な人について行くのが容易でないので、上に立つ人物は不精な方が愛されるようです。

自分の車を土足厳禁にしてスリッパに履き替える人が随分いました。道路に靴が落ちているのが不思議でならなかった時期があったのですが、あれは事故があったからではなく、スリッパに履き替えるのに、車の屋根の上に靴を置いたのを忘れた結果なのだな、と気が付いたのは、携帯電話を同じ様にしてなくした時でした。 家にあがる時は靴を脱ぐ、実に日本的な習慣なのですが、自分の車を綺麗にしておきたいばかりに、吸い殻、空き缶、ティッシュの類いを道路に平気で捨てて行く人もいっぱいいます。アパートの廊下にゴミを掃き出すシーン。 トラックの窓からミカンの食いカスを捨て捨て走っている運転手もいるのです。それなりに清潔好きなのかもしれません。

中東で刑務所暮らしをしたビジネスマンの手記で、一つの器に盛られた食事をみんなで手掴みで食べる時、「ちゃんと手を洗え!」と同房の仲間から怒られて、そう言えば彼等は手を洗う時、肘のあたりまで丁寧に洗うし、顔を洗う時も耳の後ろまで洗っている、イスラム教徒というのは見かけによらず我々より清潔だ、と書いています。 インドでは用を足した後左手で拭く、と永らく言われてきました。しかし、壷に入れた水を使って洗っているのだ、と表現すると、ウウォシュレットが普及した現代では受ける感じが変わってきます。

フランスでは昔からどんな安ホテルでもビデが備えられていて、その使用法を巡って、世界中の観光客の失敗談には事欠かなかったのですが、最近では、あそこばかりじゃなく、たまにはシャワーくらい浴びろ!とアメリカ人から罵られるありさまです。

『毛沢東の私生活』で、中国の山奥に育った彼は風呂に入るどころか、歯を磨く事もなかった、と侍医を務めた作者に書かれています。 燃料がヤクの糞しか無いチベット、水も儘ならないモンゴルでは、風呂を沸かすことも思い付かないどころか、積もった垢に美意識を持っているのではないか、とまで言われています。

寒い所ほど不潔、暑い所ほど清潔、中間に位置する日本は朝シャン、抗菌グッツに観られる異常な潔癖性もあれば、タンコロを踏まないように気を付けなければならない面もあるのです。子供の頃、駅に置かれていたタン壷はどのように使われていたのか、未だに首をひねるばかりです。

財界人

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胸像胸像

財界人と呼ばれる範疇は建築家とか陶芸家と同様に曖昧なところが在ります。 設計に携わる建築士が全て建築家と呼ばれることのないように、陶磁器産業の職人が陶芸家と呼ばれることのないように、中小企業の経営者は町の商工会の会員にはなれても、財界人と呼ばれることはありません。

今年の夏、軽井沢で開催された経営者セミナーで、アメリカ式の経営に比べて日本企業の経営方針がいかに人間性を重視しているか、という自画自賛の雰囲気に、招かれた講師が「サービス残業はさせる、選挙の度に会社を挙げて特定の候補者に投票させようとする、そんな会社のどこが人間重視なんだ!」と発言し、波紋を呼んでいるという新聞記事がありました。

社内報などに『21世紀にむけて』とか、『年頭の辞』とか、社長の言葉がうやうやしく載っているのを見かけますが、経営者の言葉に聞くべきものがあるかどうかは別にして、その辺のネタでも仕入れようと鷹揚に構えていた席での発言とすると、反応の方も想像がつきます。 夏の軽井沢、ゴルフ付きの親睦会、といったセミナーだったのでしょうが、あまり噛み付かれることのない人々にとって、かなりムッとなる意見だったのでしょう。

トヨタ家の後継者が経団連の会長をしていた時、「政府は早急に規制緩和に取り組むべきだ」という要望書を政府に提出した、という報道がありました。 永いこと外国車を閉め出す規制のおかげで今日の地位を築いたメーカーの経営者、今だに車検という、車を買い換えるきっかけになる以外、意味のない制度を堅持する業界のトップ、官民そろって唖然としたのではないでしょうか。

組閣の度に学識経験者、財界人から大臣を、などと無責任にマスメディアは言いますが、この2.3年の、大会社のトップが逮捕されるという事件を例に引くまでもなく、自ら手を汚すか、汚さずに済む立場にいたかの差こそあれ、政治家よりクリーンというイメージには、かなりあやしいものが有ります。 むしろ政治家や官僚に対して、非常に弱い立場にあることの方が問題でしょう。財界エリートは信用できるか?というのが官界の見方であり、士農工商の身分制度は健在です。

金融業界の末端に位置していた筈のサラ銀の経営者が長者番付のトップになり、誰がやっても儲かるはずの銀行が潰れていく現実。 アルビン・トフラーのように耳に心地よいことを書く官僚上がりの堺屋太一あたりが、重宝されるのはそこらにあるのではないでしょうか。

ダンディズム

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きっぷきっぷ

平均寿命が80歳を超えたからといって、身体機能の耐用年数も向上した訳ではありません。やはり50年が限度なのではないかという徴候は種々診られます。 戦争が始まっても、とてもじゃありませんが、お国の役にたつ自信はありません。

嵐山光三郎は人間50になったら何をやっても善いのではないか、と言っています。 家族や社会に対する責任放棄、昔から町内に必ず一人はいた、何の役にも立たないおやじを極め込もうではないか、と言っているのです。 しかし、いかんせん親爺の親もいつまでも元気なうえ、子供の教育にいつまでも金が掛かったりして、少なくとも定年になる60歳まで隠居できないのが現実のようです。

芭蕉が奥の細道に旅立ったのは45歳の時でした。 35歳で既に隠居していたのであり、50歳で死んだのです。 45歳というのは、作品から受けるイメージそのままのジジイだったのです。昔は娘が15.6になったら嫁に出したり、売り飛ばしたりしていたのです。

相撲の世界では、引退、即年寄りとして扱われます。 30そこそこで何故年寄りなのか、それは人生50年の時代の名残りに他ならないのです。

伊達公子が引退を表明したとき『女のダンディズム』とタイトルをつけた雑誌がありました。一線から退く決意をした、まだ若いスポーツ選手に対する最大級の賛辞、思わず拍手をしたくなるようなタイトルでした。

相撲の断髪式、ボクシングのテンカウント、スポーツ界の引退セレモニーの秀逸です。 野球選手にマイクを持たせて喋らせるのは最悪です。

40を過ぎたら自分の顔に責任を持て、という言葉がありますが、責任はともかく、あきらめのつく年齢ではあります。50を過ぎると、それもどうでもよくなってしまうのですが、これは老人性のニヒリズムの徴候です。やはり責任は持たなければなりません。 ダンディズムという便利な言葉があります。やせがまんの美学、とでも申しましょうか、若い人には真似をする事が許されない、この尊厳を保つ最後の砦を放棄してしまっては、老醜をさらすのみとなるでしょう。